天才laboの考える「昔も今も変わらない教育の価値」

福澤諭吉が明治時代に書いた『学問のすゝめ』という有名な本があります。

名前は誰でも聞いたことがあるけど、何のことが書かれているか、見たことがある人は少ないのではないでしょうか?

当時の人が感銘を受けた重要部分は、次の一節です。少し長いですが引用してみます。

『・・・されども今広くこの人間世界を見渡すに,かしこき人あり,おろかなる人あり,貧しきもあり,富めるもあり,貴人もあり,下人もありて,その有様雲と泥との相違あるに似たるは何ぞや。

その次第甚だ明なり。実語教に,人学ばざれば智なし,智なき者は愚人なりとあり。

されば賢人と愚人との別は,学ぶと学ばざるとに由て出来るものなり。

又世の中にむずかしき仕事もあり,やすき仕事もあり。

そのむずかしき仕事をする者を身分重き人と名づけ,やすき仕事をする者を身分軽き人と云う。

(中略)

人は生れながらにして貴賤貧富の別なし。

唯学問を勤て物事をよく知る者は貴人となり富人となり,無学なる者は貧人となり下人となるなり。』

簡単に言ってしまえば、身分・家柄にかかわらず、

個人が努力をして学問を収めれば、社会で身を立てられる。という理念です。

江戸時代以前は、人は生まれてくる家によって、身分や職業が決まってしまいました。

大工の子は大工。農家の子は農家。家と職業が固定化されていたのです。

昔の感覚で「家」というのは、家族であるだけでなく、会社や商店に近いものでした。

そんな江戸時代に生まれた福沢諭吉をはじめ、当時の日本の偉い人たちが外国に行ったとき、外国では定期的にみんなの投票で殿様を決めている(民主主義)。

ということに、まず衝撃を受けます。

そして、当時、世界で一番最強だった国はイギリスなのですが、イギリスの町の一般人が愛読していた本が『自助論』という本でした。

「天は、自ら助けるものを助ける」という努力の大切さを真面目に説いた本を、国民1人1人が読んで感銘を受けて努力している・・・。

身分、才能などというものは生まれつきの固定的なものである。

という考え方の当時の日本に育っていたえらい人たちは、当時の欧米国家の想像を絶する強力さが何によってできているのかを体験して知りました。

国民の知的教育水準の高さと、努力して学問ができる者が認められて上に上がっていける社会。これを実現しない限り日本は国として絶対に発展しない・・・。

そんな政府高官の外国での衝撃体験が元になり、明治時代、憲法や法律ができた後、日本の国としての教育の基本目標には『学問は身を立てるの財本」太政官布告第214号)』と明確に記されました。

勉強することによって君の将来は開ける。頑張れ。

と、「立身出世」主義に基づく人材育成を国がハッキリ目指したのです。

この方針に従い、子供全員に教育がいきわたるように、まだ国家税収が少ない初期のころから予算を優先的に回して、全国すべてに小学校ができました。

子供の教育が盛んになり、みんなが一生懸命勉強するようになったので、結果的に優秀な人材が次々に出てくるようにり、日本は江戸時代から、急にヨーロッパのように近代化されていきました。

【 親が子供に「勉強しろ!」は日本人の遺伝子 】

明治以降、戦争を経て、新しい憲法になり、教育基本法も明治時代とは大きく変わりましたが、日本人の意識の深層では、ほとんど変化はないのではないでしょうか?

「勉強しなさい!」と、親は子供に言います。

しかし、「なぜ勉強しなければいけないのか?」の理屈を、子供に明確に語ることができる親は意外といません。

それなのに、なぜ親は子供に理屈抜きで「勉強しろ」というのでしょうか?

これについて私は、明治時代以降の「勉強すれば立身出世できる。そういう時代になった。」という日本人の熱い思いが、遺伝子化されて受け継がれているものと考えています。

【 忍び寄る、新たな身分制度 】

 今は、昔よりも豊かになり、特に一生懸命働いて社会参加しなくても、生活するには困らない時代になっています。

しかし、そういう豊かな時代だからこそなのか、昔の「士農工商」ではない新たな身分階層が徐々に生まれつつあります。

この新たな身分階層は「貴族」や「武士」など国の制度ではなく、目に見えないものなので、余計、昔の身分制度より厄介だといえます。

2000年以降の日本は「経営者・正社員・派遣社員・パート」という

『賃金格差による身分階層』が、徐々に形成されていっています。

これをもっと詳細に見ると、経営者の上にオーナー(株主)がいて、パートの下には、働くことすらもできない人間もいたりします。

そうすると、世の中は「株主、経営者、一般労働者、パート、無職者」

の身分階層区分けになっていると見ることができます。

問題はここからです。一度その格差が生まれると、その格差が子供たちに「遺伝」してしまうのです。【年収の格差が、教育の格差を生み出していく】

その理由はとても簡単です。

いつクビにされるか分からず、年収が300万程度に固定化されてしまった

平均的なサラリーマンの家庭では、とても子供に高等教育を受けさせることができません。

塾も行かせられず、大学進学も厳しく、せいぜい高校を卒業させてやるくらいが関の山。

それでも、借金を積み上げて大学に行かせることができるかもしれません。

しかし、それよりも下のアルバイト、フリーター、パートで働く親は、子供たちに義務教育を受けるだけでも四苦八苦しなければなりません。

言うまでもありませんが、日本は歴然とした学歴社会であり、このような社会の中では、学歴のない人間が上層階層のポストを得るのは、はっきり言って不可能です。

これが日本に「新しい身分制度」をもたらします。

平均的なサラリーマンの子供は、環境によって親と同じ労働者階級で止まり、さらにその下の劣悪な労働環境で生きている親の子供たちは、教育の欠如によって、フリーターやニートにしかなれない。

一方で、金持ち階級に属するエリートは、子供にありったけの教育を与える。

習い事をさせ、良い学校で良い教育を受けさせ、塾に通わせ、家庭教師を付けることもあるだろう。

それが良い高校、良い大学に進学できる基礎となります。

そうやって滞りなく学歴を手に入れることができたら、今度は一流企業に入り、エリート社員としてのキャリアを積み上げ、高給を稼ぐことになる・・・。

今はまだ、格差の継承が始まったばかりなので誰も気付いていませんが、やがて『身分の固定化』が、はっきりと社会統計で示されるようになってきます。

多くの日本人はまだ、「自分は出世できない」「労働者で一生を過ごすしかない」

という意識だけのはずです。

しかし、徐々に「今の自分の身分が、子供の身分になる」

という現実に直面していきます。

そうなったとき、日本人の全員がいつのまにか「新たな身分制度に組み込まれていた」ということに気づきます。

いったん身分格差が生まれると、財力の差はもう埋めがたいものになってしまうので、昔のような均質な社会に戻ることは絶対にありません 一億層中流だった時代は遠くに過ぎ去り、金持ちは金持ちに、貧乏人は貧乏人に明確に分離していく。

昔の日本のように、再び階級別の身分制度に戻っていきます。

形を変えて・・・

明治維新で、「士農工商」をなくし、「四民平等」になった日本が、時代を経て再び新たな身分制度に移行しつつある現実が、今まさに進行しています。

【 格差を打ち破る唯一の方法は『教育』のみ 】

格差が開いて、資金力がなければ、子供の立身出世の道が閉ざされて、階級社会に甘んじるしかないのか?

というと、実は1つだけ対抗手段があります。

それは『教育』の力によって得た個人の学力・能力です。

世の中、いわゆる日本の国そのものといってもよいかもしれませんが、仮に階級社会が生じたとしても、社会を常に発展させる必要から『個人の才能』を要求します。

江戸時代後半から明治時代初期までをリアルに記録してあり、ベストセラーになった『武士の家計簿』という本に興味深い記述があります。

家柄によって人の身分が完全に固定化されていた江戸時代の武家社会であったとしても、純粋に個人の才能で業績が大きく左右される部署(特に数学的能力が要求される経理・軍事)は、家柄身分に関係なく能力主義の「試験」で採用が決められていたので、

下級武士でも出世できる糸口があったというのです

昔から日本の社会は、階級社会の時代から、身分制度からくる能力の劣化で社会全体を停滞させないに、個人が低い身分であったとしても、高い個人能力があるならば、引き上げるシステムが存在していました。

現代でいうならば『奨学金』などが、まさにそれにあたります。

学校で成績が一番ならば、学費が免除になる。

というのは、まさに資金力の差を個人の力で埋めることができるツールといえます。

各種の財団が目的別に主催している『基金』というものもあります。

これに採用されれば、生活費すらも援助してもらいながら学校に行けたりします。

つまり、勉強ができる子供には、明るい未来が拓けるわけです。

【格差を打ち破るものは、昔も今も、『教育』のみ】

この、昔から揺るがない事実を認識することが、これから到来する新たな階級身分社会を乗り切る力になると考えられます。

『♪蛍の光、窓の雪(の明かりで勉強して、貧乏から脱出して立身出世した)』

という歌の内容が、昔話ではない世界が、再び到来しつつあります。

社会で力強く生き延びる手段は、昔も今も「子供の教育」に対する親の熱意しかないわけです。